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2013年6月18日

口コミと幻影について

川越シェフの年収300万円云々発言でヒステリックな騒ぎが起きてるのを見て、なんだか不毛な争い事のように見えてきたので、なんとなく書き始めた。
僕はどっちが悪いということではなくて、要は客が「ギャンブルに負けた」のだと思う。


あまり行かないけど、外食が好きだ。
手を凝らした料理はもちろん、店の内装を見るのも好きだし、心を尽くしたサービスに出会えばなおさらだ。

「店はステージで、店員と客はキャスト。双方が場に応じた役を演じてステージを作る」
と誰かが言ってたな。その通り。

でも一方で、外食はギャンブルだとも思う。
どんぶりをかき込むだけの外食もあるけれど、ここで言う外食は「サービス」という不確かなものも含めて商売をしているところ。
外食のあと、後味の半分はこの「サービス」によって左右されると言ってもいい。
サービス。属人的で品質にブレがあり、かつ主観によって捉え方が変わるもの。
だから前提として、どんな事前情報があったとしても、外食で満足できるかどうかは、入ってみないとわからない。それにカネを払うのだから、ギャンブル。


川越炎上の火種と延焼過程をざっくり書くと、確かこうだ。
(いくつかあるかも知れないが)

800円もする水が勝手に出てきた。
それを、キレた客が食べログに書いた。
書き込みについて、川越シェフが「くだらない」と一蹴し、
このレベルの店では普通の価格設定であり、
所得の低い人の所感である、と発言した。(その後謝罪した)


川越シェフが大人げないとか、本来水って無料・・という議論は置いておくと、なんだかこの口コミをめぐる炎上は、双方真面目(たぶん)なだけに、なんだか気の毒に思えてならない。

ある価格帯の店において「あるべき姿」があったとすれば、店側、客側双方、それこそ属人的な幻影に過ぎない。客の幻影は、多くの店に入り、経験を積み時間をかけて姿形を変える。店は客の抱く幻影を体現する形で期待値に近づける、或いはそれを越えようと努力する。

「あるべき姿」に定量ルールがないのに、
その姿が当然と思っている双方が、「満たしてない」「いや、満たしてる」という無駄に口角飛沫な議論をしている。

特に、今回は“あの”川越シェフの店である。予約は何ヶ月先も埋まっているのだそうだ。
否が応にも幻影は美化される。期待値が上がる。
彼のファンが来店し、それなりのサービスを受ければ店の評価に「下駄」を履かせることもできるだろう。(もしかしたら、その下駄も加味したサービス水準にしていたのかな。邪推。)

しかし、“川越スマイル”が通用しない、シビアな客も当然来るわけだ。
「価格帯の幻影」を持った客。
口コミをざっと見ると、どうやら彼らの基準値を満たすことはできなかったようである。
つまり、「ギャンブル」的に見れば、ファンでなければ負ける可能性が非常に高い店だった、ということなのだろう。

食べログをはじめ、いわゆる口コミサイトは、ユーザーの幻影を、テキストと点数で収集し、幻影に輪郭を持たせようとするサービスである。

一人の書き込みを、小さなドットに例えてみよう。単体では「わからない」が、複数が集合すると、おぼろげに姿をあらわすのだ。
しかしドットの数は店によってマチマチである。食べログでは、数もはっきりわからないようだ。その姿の確かさすら判断できない。
“食通度合いを算出する独自のアルゴリズム”があるというが、その“食通”すら幻影ではないか。結局、幻影に輪郭を持たせるものは無いのだ。


といいながら、僕も食べログは使う。
店舗情報がプロットされた地図で店を選ぶのは楽しい作業である。
あ、ここにもあったのか、というレーダー的な発見。
4点を超える店は「どれどれ」と興味も湧く。

ただ、最後は「行って来い」だ。
楽しまなきゃ。