六本木、国立新美術館でやっている、アメリカンポップ・アート展に行ってきた。
アンディ・ウォーホルをはじめ、僕の大好きなロイ・リキテンスタイン、他にもロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、等、「アートを解放した」ポップアートの巨匠達の作品約200点が一挙に展示されている。
なんと展示作品はすべて個人所蔵。
ジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻は現在のような評価を得ていないころからポップアートに注目し、作家を支援してきたのだそうだ。
展示中には、現在夫を亡くし一人で作品を管理しているキミコさんの短い映像解説も上映されていたが、あまりにも豪華な「作品御殿」には驚かされた。
さて、そもそも、ポップアートのポップって何よ、
ということを自分に問いなおしてみる。
ポップは「大衆」。
じゃあ、大衆“向け”美術というのは正しいのかというと、
作家当人が姿の見えない“大衆”に向けて絵筆をとっていたのか、
そしてそれら作品は“高尚”ではないと言えるのか。
なんていうふうに考えると、違うよねっていう感じがする。
Wikipediaのポップアートに関する解説に、
「ポップ」の定義について一つの記述がある。
通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、
しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業
1950年代に、ポップアートの先駆的な作品を発表したとされる
リチャード・ハミルトンが述べたものだそうだ。
これらのキーワードについて、今回目にした作品と照らしあわせてみる。
うーむ。概ね合致。
これに自分なりにキーワードを追加してみると
皮肉、変換、共感
かなぁ。
アート見たあと撮った写真。 |
大量生産・大量消費という、この、人類が新しく体験することとなった事象。
これを俯瞰的に、冷静に観察しつつ、それらモチーフをあえてクローズアップすることで、見る人の消費行動そのものをアートにしてしまった、というのがアンディー・ウォーホールという人の「皮肉」だと思う。もはや消費が無意識化した人に、「おいおい。普段お前が何気なく使ってるやつでアートしてやったぜ?」っていう皮肉。
そして、そういった作品が「アート」のカテゴリで成功を収めたことは、アート界への皮肉でもある。
「変換」は、量産品が取り上げられることが多いポップアートにおいてぴったりな言葉じゃないかなぁ。リキテンスタインは、アメリカンコミックをモチーフとして、一旦その構成物を分解して再構築した人。
構図・線・着色、そしてカラー印刷技術までも取り込んで、彼が一旦咀嚼し、巨大なカンバスに描き出すというのは、まさに変換といえる作業ではないか。
そもそも、対象を描き出すというのはすべて変換作業なんだろうけど、ここでいう変換は分解する対象にとらわれず、変換そのものが主題となり得る、という意味合い。
「共感」は、上述した2つを大衆に投げ込んで、生活者としての共感を得る、ということ。
この共感ってまさに、「みんなが知っているものを扱う」からこそ生じるものだ。
冒頭で、ポップアートのポップは“大衆向け”が当てはまらないと書いた。
では何の「ポップ」なのかというと、それはモチーフそのものがポップ、と考えるとすっきりするんじゃないだろうか。消費も含めた現代の人間、大衆という“現象”を描き出したアート。それがポップアート。
ポップアートは楽しい。
何より「アート」というものを、何となく自分のものにできたような気になれるのは嬉しいものだ。共感をベースにして、作家の施した仕掛けに驚いたり、関心したり。
アートというものが何か使命を帯びているのだとしたら、本質的にそれは人を幸せにすべきものだと思う。ポップアートがより多くの人を楽しませることができるポジションにいるのだとしたら、ポップアートこそが“正しい”アートなのかもしれない。
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