2013年8月15日
冷凍庫に入ったりする人たちの心理を考えてみた
一連の「冷凍庫入っちゃった」系事件。
24時間残念営業さんの記事読んでなるほどーと思った。
彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。
冷凍庫入っちゃう人たち=「うちら」。
彼らには彼らの内側の世界があり、ルールがある。
ゆえに常識は通用しない。ということ。
彼らが「悪いこと」をどのように定義し、分別しているかは
わからないけど、でも多分、悪いことだとは思っている、はず。
店長の前ではやらないだろうからね。
こっそりやったんでしょ。裏で。
じゃあそもそもなぜ「悪いこと」をするのか。
お盆なので妄想を働かせて深掘って考えてみた。
■俺たち、仲間だよな?
たぶんあの悪事は、
「うちらの結束」を確認する行為なんじゃないだろうか。
“こんなことを見せるなんて、お前らだけだぜ。”
俺たちだけしか知らない、悪事。
見せる方も、見せられる方も、
その悪事を共有し、それを「黙っている」ことによって共犯関係を作り、
「うちらの結束」を確認し、安心する。
(10代の頃を思い出すと少なからず経験がある。)
そして今回の共有行為が、
残念がら「黙っていることにならない」ことに彼らが気づかないのは、
様々な論者が指摘しているとおり、情報発信ツールの手軽さに対する
ネットリテラシーの欠如、イメージ力の欠如によるものだと思う。
■なぜ、結束確認が必要なのか?
彼らに限らず、社会には人気者>そこそこ人気者>普通>いまいち、
という風にヒエラルキーがあって、
そして、あるところで境界線があり、そこから下は「嫌われ者」だ。
嫌われ者という、どよよんとして暗い闇は、
意識すればするほど確かな存在として蠢き、
うっかりしていると
気づかないうちに線を踏み越えてしまうような引力を持つようになる。
経験的に、10代の頃に感じた闇の深さは
途方も無いものだったように思う。
「うちら」は、家族に並ぶ社会の最小単位であり、
人によっては家族以上に強い紐帯になる。
そしてそれは闇の一線を越えないための命綱でもある。
結束が固ければ固いほど、暗闇が視界から消えていく。
そう考えると、「うちら」という結束を守る行動は、
闇から身を守るための、一種の防衛本能と言えるのではないだろうか。
迫る闇の恐ろしさに、
結わえた命綱が心もとなくなる。
緩んでいないか。
ほつれていないか。
そして、「うちら」に向けて様々なパフォーマンスが行われる。
冷凍庫に入って仲間に合図を送った彼も、「うちら」から
笑って返事が返ってくればそれで良かったのだ。
はははバカだなぁ。どんだけ暑がりなんだよ。
また、確実に返事が返ってくるように、
少々刺激的なものが必要だと思ったのだろう。
結果的に、日本中から返事が来ることになったが。
ネットの情報技術により、
無数の「うちら」はどんどん可視化されていく。
そんな「うちら」を誰よりも早く見つけようとする人もいる。
そう考えると、もはや今回のような事故は
もはや防ぎようのないことにも思えてくる。
または、そんな日常化する無数の「うちら」に、やがて麻痺し、
話題にもならなくなる日がやってくるかもしれない。
ラベル:
妄想